2009年2月2日月曜日

ゲバラの生涯を4時間超で映画化した「チェ」鑑賞記  青山貞一


 エルネスト・チェ・ゲバラの生涯と活動を描いた新作映画、「チェ/28歳の革命」と「チェ/39歳 別れの手紙」を見た。 もともとこれら2つの映画は一本の映画「Che(チェ)」として作られており、それを劇場用として2本に分けたようだ。


 「チェ」の前編、すなわち「チェ/28歳の革命」は、2009年1月26日に東京都港区六本木ヒルズの映画館、「チェ」の後編、すなわち「チェ/39歳 別れの手紙」は、1月31日に東京都練馬区豊島園の映画館で鑑賞した。映画館入場料はいずれも1800円なので、「Che(チェ)」を見るためには3600円が必要となった。


 六本木ヒルズの「チェ/28歳の革命」は、そこそこ客が入っていた。が、「チェ/39歳 別れの手紙」は封切り当日にもかかわらず、約20名とパラパラの入りだ。ちょっぴり寂しさを感じた。


 映画だが、全編を通じていえるのは、きわめてドキュメント・タッチが強く、演出がほとんどないことである。淡々と事実が映像として流れる。この手法は前編でも後編でも同じだ。


 「チェ/28歳の革命」ではゲバラの国連演説など実際に撮影されたモノクロ映像と映画で新たに撮影し映像とを多面的に織りまぜ多用していた。映画で制作された部分、とくにモノクロ部分は敢えてドキュメント映像用に画質を調整していると思えるほど違和感なく溶け込んでいた。


 主演でチェを演じたベニチオ・デル・トロ(Benicio del Tro)がゲバラそっくりの姿、形、それにトロの名演が重なり、本当にどこからどこまでが当時の映像で、どこからが映画のための映像なのかが分からないほどだった。




自らプロデューサーも務めたプエルトリコ出身の俳優、デル・トロは、アルゼンチン出身のチェ・ゲバラを演じるにあたって、スペイン語の難しい訛りにも挑戦した。また退任前のキューバのカストロ議長と対面し、生前のゲバラについて入念にインタビューしたという。俳優魂に徹している。それもあり、完璧なゲバラ像を構築している。


 デル・トロは、ビートルズの一員、かのジョン・レノンに「世界一格好いい男」と絶賛されたゲバラを演ずるに最適の俳優であった。  以下は、第61回カンヌ国際映画祭で『CHE』(原題)でベニチオ・デル・トロが最優秀男優賞受賞を受賞したときの記事。


第61回カンヌ国際映画祭『CHE』(原題)ベニチオ・デル・トロが最優秀男優賞受賞!


 フランス時間2008年5月25日(日) 第61回カンヌ国際映画祭の授賞式がおこなわれ、キューバ革命の英雄、チェ・ゲバラの半生を描いたスティーブン・ソダーバーグ監督の超大作『CHE』(原題)で、主人公ゲバラを演じたベニチオ・デル・トロが最優秀男優賞を受賞した!


 本作『CHE』(原題)はフランス時間2008年5月21日(水)にコンペティション部門で公式上映され、2,300人の超満員の観客から約6分間のスタンディングオベーションを受けるなど、大変高い評価を受けた。


 革命の国として知られ、チェ・ゲバラを英雄視するフランス国民からも支持されたデル・トロの演技は、体重を25Kgも減量した熱のこもりようで文句なし、審査員全員一致での最優秀男優賞受賞となった。
 ショーン・ペンから「ベニチオ・デル・トロ」の声が上がると、会場内の拍手が鳴り止まず、途中、中断させられ、ようやく止まったほどだった。審査員は全員、スタンディングオベーションで迎え入れた。審査委員長のショーン・ペンいわく、「数少ない、審査員全員一致での受賞だった」とのことだった。


【ベニチオ・デル・トロ 受賞のコメント】
(登壇後、感極まって言葉が出ず、しばらく沈黙した後)
 ワイルド・バンチ(制作会社)とフランスのワーナー・ブラザースにまず、感謝の意を表したい。
 この映画を実現させるという僕の長年の夢をかなえてくれた。そして何より私はこの賞をチェ・ゲバラに捧げたい。そして、ソダーバーグとこの喜びを分かち合いたい。本作の撮影は非常にハードなものだったが、自分は俳優という仕事に専念することができた。それは、ソダーバーグ監督が全て支えてくれたからだ。

■チェ/28歳の革命


 前編の「28歳の革命」では、エルネスト・チェ・ゲバラが亡命先のメキシコでフィデル・カストロ(のちのキューバ最高議長)と運命的な出会いを果たし、28歳の若さでカストロとともにキューバ革命に着手し、1959年1月1日、革命を成し遂げるまでを描いている。


 この映画をみるひとは、できるだけあらかじめキューバ革命の経過を知っておく必要があると思う。
 1956年11月25日、カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名は8人乗りのグランマ号に乗り込みキューバに向かうが、嵐の中での出航でもあり、キューバ上陸時には体力を消耗し、士気も低下していたとされる。


 映画ではメキシコのベラクルスからキューバ島に向かう船からはじまる。上陸後、シエラ・マエストラ山脈に潜伏し、山中の村などを転々としながら軍の立て直しを図る。その後キューバ国内の反政府勢力との合流、反乱軍は増強されていくさまをつぶさに描いている。


 当初、ゲバラの部隊での役割は軍医であったが、革命軍の政治放送をするラジオ局を設立するなど、政府軍との戦闘の中でその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人の気持ちをつかむ才を遺憾なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。


 1958年12月29日、ゲバラは軍を率いてキューバ第2の都市サンタ・クララに突入。多数の市民の加勢もあり、これを制圧、首都ハバナへの勝利の道筋を開いた。そして1959年1月1日午前2時10分、将軍フルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国へ亡命、1月8日カストロがハバナに入城、「キューバ革命」が達成された。


 ゲバラは闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、キューバ新政府の閣僚となるに至った。


 映画では工業相となったゲバラが、国連で米国帝国主義を公然と非難する演説を行う様子が延々と流れる。この演説は、YouTubeにもアップロードされているものだが、残念ながらYouTube判はゲバラの肉声が聞かれるものの、当然のこととしてすべてスペイン語であり、その内容はポツン、ポツンしか分からなかった。


 映画でも国連演説の映像と音声が使われていたが、映画では当然のこととして日本語訳がスーパーインポーズされ、ゲバラの発言内容が一字一句流れた。その内容は、まさに感動ものであった。ゲバラは米国の帝国主義とともにキューバを経済封鎖する米国を徹底的に糾弾する。


 国連演説に関連し、当時米国の傀儡政権の巣窟だった南米諸国の大統領や閣僚が次々にキューバの革命政権を中傷、非難したあと、ゲバラが演壇に立ち、それら米国の手先となっている傀儡政権の言い分を論破する。これも前編の大きな見所である。


■チェ/39歳 別れの手紙


 次に後編のチェ/39歳 別れの手紙は、表題となっている別れの手紙をカストロがキューバ国民に読み上げるところから始まる。何で突然、ゲバラがキューバからいなくなったかについて、国民に説明するためだ。


 ゲバラはカストロとの会談の末、新たな革命の場として、かつてボリビア革命が起きたものの、その後はレネ・バリエントスが軍事独裁政権を敷いているボリビアを選ぶ。


 南米大陸の中心部にあって大陸革命の拠点になるとみなしたボリビアを選び、1966年11月、ウルグアイ人ビジネスマンに変装して現地に渡る。この変装もなかなか見応えがある。チェはOAS(米州機構、英語でOrganization of American States、スペイン語でOrganizacion de los Estados Americanos)の関係者に扮してボリビアのパスポートコントロールを通る。チェックは受けるものの、簡単に通過し、ボリビアに入る。


 ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたもので少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに前衛、本隊、後衛とわけて組織的に警戒し、必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。


 ゲバラはボリビア民族解放軍(ELN)を設立して山岳地帯でゲリラ戦を展開する。


 だが、ラモス(現地でのゲバラの名前)は独自の革命理論に固執したこと、親ソ的なマリオ・モンヘ率いるボリビア共産党からの協力が得られず、さらにカストロからの援助も滞ったため次第に疲弊してゆく。


 折からボリビア革命によって土地を手に入れた農民は新たな革命には興味を持たず、さらに元ナチスドイツ親衛隊のクラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、冷戦下において反共軍事政権を支持していたアメリカのCIAから武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。


 映画では延々と、リビアの山中と川を行き来するゲリラ部隊の映像が流れる。食糧が尽き、山岳地帯の農民の家で金を払い食糧を調達するが、それらは同時に、ゲリラ部隊の消息をボリビア政府軍に通報させるきっかけを与えるものとなった。


 1967年10月8日、ゲバラは20名足らずのゲリラ部隊とともに行動、ボリビア・アンデスのチューロ渓谷の戦闘で、政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受け、捕えられる。部隊の指揮を務めていたボリビア人とともに、渓谷から7キロ南にあるイゲラ村に連行され小学校に収容された。


 このイゲラ村を含め、後編に出てくるボリビアの山岳地帯の貧村は、おそらく現存する村をフィルムコミッションで使ったらしく、この映画、とくに後編のすべてをあらわしているように思えた。


イゲラ村

 ラ・イゲラ、La Higuera、スペイン語で「イチジクの木」の意は、ボリビアの小さな村。 サンタクルス県にあり、サンタクルス市から南西に150kmほど離れた場所にある。標高は1,950m。 2001年の国勢調査によると人口は119名でその多くがグアラニー族である。行政区分としてはプカラ (Pucara)郡に属する。


 その意味するところは、まさにボリビアでのゲバラらのゲリラ活動は、キューバと異なり、今風に言えば「キューバから来たテロリスト」という政府軍の情報操作、レッテル張りが功を奏し、村や村人には政府軍への通報こそあれ、支援、協力がなかったということである。


 後編では、まさにそれが映像のそそかしこに表現されていた。


 上記の小学校では、ゲバラに最後の食事与えた教諭のフリア先生が現在も元気でバイェ グランデで暮しており、バイェ グランデを訪問した大部分の記者が彼女にインタビューしているそうだ。


 翌朝、イゲラ村から60キロ北にあるバージェ・グランデからヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラ村で午前10時に電報「パピ600(ゲバラを殺せ)」の電文を受信。


 ゲバラの処刑は米国CIAのフェリックス・ロドリゲスと共に到着したボリビア国軍情報局のセンテーノ・アナヤ大佐の指示で行われた。大佐は顔や頭は撃たないように指示した。


 午後0時40分にベルナルディーノ・ワンカ軍曹(現在、報復を恐れ、ボリビアから離れて米国で暮らしている)にM1自動小銃で射殺された後、ゲバラは政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹(30年近く基地内で暮らし、顔の整形手術を経て、ボリビア東部の農園で暮らしている)によってとどめの一発を食らい死亡した。


 殺害されたゲバラの死体は、CIAのロドリゲスらとともにヘリコプターでバイェ グランデ市のマルタ病院に運ばれる。映画にはないが病院の洗濯場で一般市民、報道関係者に公開された。この洗濯場は現存するが非常に粗末な施設である。


 ゲバラの遺体は、1967年10月10日まではマルタ病院の洗濯場にあり、その後、行方が30年間極秘にされていたとのこと。
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 映画ではヘリで遺体が運ばれるところで終わり、メキシコのベラクルスからカストロらとプレジャーボートでキューバに向かう途中の甲板にいる無言のチェ・ゲバラがラストシーンとして映し出される。


 以下は政府軍に殺害された跡のゲバラの写真(映画にはない)。

 
■ゲバラの喘息


 これは後編でとくに言えることだが、ゲバラはわずか2歳にして重度の喘息と診断されている。


 これが示すように、39歳の短い生涯を通じ、喘息がチェ・ゲバラの活動に暗く大きな影を落としている。
 ゲバラは幼少期から痙攣を伴う激しい喘息の発作で生命の危機に陥ること度々あったという。そのゲバラは重度な喘息患者でありながら、葉巻を放さない喫煙家であった。そこに大きな矛盾を感じるのは私だけではないだろう。


 医者でもあったゲバラは、この矛盾、すなわち何度も発作で死にかかっていながら葉巻を吸い続けたことがボリビアにおけるゲバラの永続革命にとって決定的なマイナスとなったことは否めない。


 実はこの論考を執筆している私(青山)も重度な喘息患者である。


 過去、何度も激しい喘息発作に見回れ、救急車で近くの昭和大学病院の救急センターに連れ込まれた。その意味で重度な喘息の怖さを十二分に体験、認識している。


 映画の前編ではゲリラ活動の多くがキューバではシエラ・マエストラ山脈の山中にあり、後編の舞台となったボリビアでは、さらに山深く急峻な山中にあった。しかもゲバラは機関銃など重い荷物や銃を所持しながら急峻な山中を動き回わっていた。ひとたび気管支喘息の激しい発作に見舞われると、身動きができなくなる。


 実際、「チェ/39歳 別れの手紙」ではボリビア・アンデスのチューロ渓谷での政府軍との戦闘では、何度も激しい喘息発作に見舞われ、仲間の救護を得るも、動きはままならず、政府軍に捉えられるさまが映し出されていた。


 後編のなかで、チェ・ゲバラ自身、ボリビアに喘息の薬をもってこなかったことが、自分の最大の廃嫡(はいちゃく)、失敗であったと述べている部分がある。まさに、その通りであったと思える。


■イゲラの聖エルネスト 


 1997年、死後30年にして遺骨がボリビアで発見された。遺骨は遺族らが居るキューバへ送られ「帰国」を迎える週間が設けられ、遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。


 今日でもチェ・ゲバラは、中南米を始めとした第三世界で絶大な人気を誇るカリスマ、なかんづくボリビアではイゲラの聖エルネストと呼ばれる。


 イゲラはゲバラが政府軍に捉えられ、殺害されたあの村の名前である。


 そのボリビアだ、2006年、 ペルーのアレハンドロ・トレドに続いて南米大陸二人目のボリビアでは初の先住民出身となる大統領、エボ・モラレスが「社会主義運動」より就任した。


 現在、ボリビア民衆にとって、チェ・ゲバラは自分たちの守護神であると感じているだろう。 
 前編、後編の両方を見終わった跡の率直の感想として、後編こそがチェ・ゲバラそのものをあらわしているものとして大いに感銘を受けた。


 また、チェ・ゲバラになりきった男優、ベニチオ・デル・トロはすばらしい。


■腑抜けで「玉なし」の先進国の男達への警鐘!?


 今、まさに世界中の男性が腑抜けで玉なし状態となっているなか、彼は「世界一格好良い男」となったのである!


 もし今、チェ・ゲバラがこの世に生きていたら、極致に達した「格差社会」をどう思うか、アフガン、イラクを侵略し続ける米国やガザの市民を虐殺するイスラエルをどう思うか、映画館からの帰り道、ふと感じた。